5月12日は、「ナイチンゲールデー」

1820年5月12日。ナイチンゲールの誕生日にになんで制定されたそうです。

ナイチンゲールには、こんな話が残っています。
19世紀のクリミア戦争。ナイチンゲールは、従軍看護師として現地に赴きます。そこで目にしたのは地獄の光景。

不衛生なベッド、腐りかけた食事、つまった下水、あふれかえるトイレ…、馬や牛の死体まで転がっていたそうです。

そこで、気づきます。死人が出るのは兵士が戦場で受けた傷ではなく、不衛生な環境により蔓延る感染症のせいだと。ここからナイチンゲールの奮闘が始まります。
手押し車250台ぶんもの汚物を処分。

汚れたシーツを全て洗濯し、下水のつまりを直し、定期的な換気で空気の状態を良くする。腐っていない材料によるまともな食事を提供し、徹底的に病院の環境改善に努めます。

その結果、1855年の2月には収容された兵士の43%が死亡していたものが、同6月には、わずか2%にまで劇的に低下したのです。ナイチンゲールが変えたものは、場全体の環境と、そこにいる人たちの考え方だったのです。

とはいえ、そこに気づくまでに時間がかかった。
病院の衛生管理の初歩的な事項の注意を怠った責任は、誰でもない、ナイチンゲール自身、彼女はそう考えました。

戦後、当時の状態を、統計学者ウィリアム・ファーと共同で調査した彼女は、大きな事実に気づきます。

それは、25,000人の兵士のうち、18,000人を死なせた主な原因が、戦傷や疲労困憊によるよりも、兵舎病院の過密さと不衛生な状況であったということ。
クリミアから帰還した彼女が、国民的支持や賞賛の陰で、しばらくのあいだひっそりと沈黙を守った裏には、虚脱状態に陥るほどの衝撃と屈辱があったと言われています。

彼女は、「異常な死亡率の要因」という真実をできるだけ多くの人々に知らせることで再び同じ過ちが繰り返されるのを防ごうと決心します。
そこで、女王や政治家を巻き込んだ隠ぺい工作に対して、「真実の公開」への闘いを挑みます。

そうすることで、自らの責任をとろうとしたのです。そして、「真実の公開」への厚い壁を突破するには、客観的なデータに基づく説得力が必要でした。
ナイチンゲールが統計学と衛生統計へ並々ならぬ情熱を傾注したのはそのためだと言われているのです。

やがて、クリミア戦争におけるイギリス陸軍兵士の異常な死亡率の原因を明らかにした『鶏のとさか』と呼ばれる有名なダイアグラムを完成させます。


(参考図 ナイチンゲールの『鶏のとさか』ダイアグラム)

その後、ナイチンゲールは米国統計協会の名誉会員に推薦され、統計分野において国際的な栄誉に輝いたのです。(ライブ講師実践会 メールマガジンより転載)

目次