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グアム島での不思議な体験(終戦記念日に思う)

アラカルト : 2021年08月15日(日)

今から38年前、総理府「第18回青年の船」に乗船した。この不思議な体験は、この青年の船に参加した時の出来事である。ちなみに私が参加したこの青年の船は、日本の青年269名、オセアニアの10ケ国の招聘青年38名、合計307名の団員を乗せ 昭和59年1月26日に東京港を出航。

50日間にわたり、オーストラリア・ニュージーランド・トンガ王国・西サモアを訪問し3月15日の帰国まで、自己開発、リーダーシップから国際関係にいたるまで幅広い研修がおこなわれた。船内で生活を共にした外国人青年達と、言語・宗教・民族を越えた人間的共感によって結ばれたことも、この船ならではの成果だった。

前置きが長くなりました。長い船旅。日本への帰途、給油のため立ち寄ったグアム島は、年間100万人が訪れる観光地。面積は日本の淡路島とほぼ同じ大きさ。給油に合わせて1日の休日が与えられたため、どう使うかと思案。自分らしく思い出になることをしたいと考え、ゴミ拾いボランティアを計画した。

他の団員は、サーフィンやショッピングと楽しい思い出づくりをしているなど、内心羨ましく思いながらも、ひとりで船から市街地中心部までの片道分のバス料金をもって出かけた。午前11時、準備したごみ袋5枚も90分程で終了した。それから、船へ歩いて帰ることにした。

そこで不思議なことが起こった。道で50セント硬貨を合計7回拾うのである。最初は、偶然かと思ったが、船への帰途に出会った4名の団員たちも探しているのもかかわらず、私だけ拾った。当時の50セントを当時のレートで換算すると、125円。合計で、900円ほどになる。そのお金で皆さんに飲み物をご馳走しようと、通りがかりの食料品店に立ち寄った。何故かそこで店主と話が弾み、最後に戦争の話となった。

当時、店主が17歳。戦時中でこの島で、日本軍との戦いで親を亡くしたこと、友人が目の前で死んだことを話し始めた。話を聞くうちに、個人としての立場ではなく、青年の船でこの国に立ち寄った日本の青年としての立場で聞いている自分に気づいた。

いろんな思いが駆け巡った。結果的には聞くことしかできなかった。硬貨を拾い、何かに引き込まれるようにお店で入って導かれるように人に出会う。これも何か意味があったのだと。

上記写真は、激戦地硫黄島で弾丸を受けたため、生々しく変形した山々で「バンザイクリフ」と呼ばれる崖。戦時中追いつめられた日本人2万5千人の人達が自決した場所といわれている。

その時、その場にいた人達の心理状態を考える時、今の私たちはなんて幸せなんだろうという気持ちになる。これまで「戦争」という言葉は聞いていた。しかし初めて自分なりに理解できた気がした。

日本への帰国が近づいた3月12日。船上で行われた戦没者慰霊祭では、グアム島での出来事を通じて、その意義・意味を少しでも理解しようと努めた。「死」という手段を選ばざろう得なかった人たち、戦争の犠牲者。死というひとつの真理の前に戦慄に震えた事だろう。

私たちと同世代の人たちも多くいたと聞き、酒もタバコも、欲しかっただろう。そんな気持ちが心の中を駆けめぐった。そこで私は、一本のタバコに火を付け海へ投げ手を合わせた。それを見た団員たちも心が通じたのか何も言わす、海へタバコを流してた。

帰国後、しばらくして、この硫黄島での出来事を数人へ伝えた。ある方にこう言われた。「私は戦時中、軍医をしていた。生存者がいるのにも関わらず、ある国の戦車が医療テントを潰していくのを目の当たりにした。君ならどうする?」私は、「家族や仲間を守るために戦うかも知れません」と答えた。すると「それが戦争なんだよ」と。

最初は、小さなことでも、それが憎しみの連鎖を産む。それが戦争へと繋がるのだと。だから小さなことと言えども、おろそかにしてはいけないよと話してくれた。

ユネスコ憲章(前文)にこんな言葉がある。

「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。(以下略)」